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Takahashi  Yukinari

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#7 『風を編む』 ―いなべの古民家にて―

  • 執筆者の写真: 幸誠 高橋
    幸誠 高橋
  • 4月27日
  • 読了時間: 4分

4月も終わりに近づく中、らしくない冷んやりとした部屋の空気の中、

高橋幸誠は目覚めた。

開いたカーテンの隙間から射す淡い光に、朝を迎えたことを次第に自覚していく。

そして、今日が特別な一日であることを思い出した。

三重県いなべ市で行われるマーケットイベント「true life sharing 2025」。

パペットカーで、「三匹のこぶた」を上演する。

顔を洗い、荷物を車に積み込みながら、心もひとつずつ準備を整えていく。

音響機材、人形たち、小道具。忘れ物はないかと考えを巡らせていた時、

ふと、自分の胸の奥に軽い緊張が宿っていることに気づいた。


「今日も、いい一日になる」小さく呟き、車のドアを閉めた。


いなべ市へ向かう道すがら、窓の外には若葉色に染まる山並みが広がっていた。春の息吹が空気に満ちていて、深呼吸をするたびに胸が軽くなっていく。

目的地の古民家に到着すると、すでに庭には数々のテントが立ち並び、パン屋や洋菓子屋、美容師たちのブースがにぎわっていた。縁側には簡易ステージが組まれ、ギタリストたちが音合わせをしている。やわらかな音が空に溶け、どこか懐かしい匂いを漂わせていた。


高橋はパペットカーを広場の端に設営し始めた。小さな舞台、糸を点検する指先、

そっと呼吸を合わせる心。準備の手を止めることなく、場の空気を静かに吸い込んでいく。


そして、開演直前。高橋はふと思い立ち、スマートフォンを手に取った。

すると、劇団のメールアドレスに、一件の新しいメールが届いているのが目に入った。

珍しい苗字の差出人から、来月行われるパン主催の人形劇公演のチケット予約。


“大人券1枚、子ども券1枚。”


予約内容は簡潔だったが、その文面には、どこか温かみがあった。

急ぎ、感謝の気持ちを込めた返信を打つ。予約受付完了の旨と、観に来てくれることへの

喜びを、短い言葉に詰め込んで。

指を動かし終えたちょうどその時、開演の準備が整った。スマホをポケットにしまい、

高橋は深く息を吸った。


人形劇、開演。


最初の台詞が風に乗り、広場に溶けていった。わらの家を建てる長男のこぶた、木の家を建てる次男、そしてレンガの家を作る末っ子。オオカミが「ふうーっ」と吹き飛ばすたびに、子どもたちが声を上げた。

笑い声と驚きの歓声。誰かの笑いに誘われるように、また別の誰かが笑った。そんな連鎖が、春の光の中で、静かに広がっていった。

上演が終わると、自然と拍手が湧き起こった。その瞬間、確かに、ここに物語が生まれたのだと感じた。


片付けを終えると、主催者の方が「よかったらどうぞ」とタコスライスを振る舞ってくださった。

彩り豊かな野菜と香ばしい肉。ひと口頬張ると、疲れた身体にじんわりと染みわたった。

食べながら空を見上げると、いつの間にか午後の陽射しがやわらかく傾いていた。

パペットカーを片付け終えたあとは、バンドステージの本番。

古民家の縁側にセットされたステージに、三人のミュージシャンが現れた。

ギターとギター、そしてカホン。

シンプルな編成だったが、そこから紡がれる音は、驚くほどに豊かだった。

リズムが跳ね、メロディが広場にふわりと漂う。The BOOMのような、けれど沖縄の要素を取り除いた、まっすぐで心地よい音楽。高橋は、ただただ音に身を委ねた。

そんな中、バンドのボーカルがMCに入った。「今日は即席ユニットなんですけど、楽しんでください!」続いてメンバー紹介。

ボーカルの男性の自己紹介を聞いた瞬間、高橋は思わず顔を上げた。


あの、さっきの予約メールの人と、同じ苗字だ。


偶然にしては出来すぎている。

心臓が小さく高鳴った。きっと、あの人が、パンの公演に来てくれるお客様だ。そう確信しながら、高橋はライブを最後まで聴き入った。


ライブが終わったあと、ボーカルの男性が「ふぅ。」とライブの余韻に浸っていた。

隣には、息子さんであろう、小さな男の子がちょこんと座っている。


チケット予約は“大人1枚、子ども1枚”。


もはや疑う余地はない。

高橋は意を決して、ボーカルの男性に声をかけた。「今日のライブ、すごく素敵でした。実は、開演前に公演のチケット予約をいただいたかたが、あなたじゃないかと思って……」

ボーカルは、にこりと笑い、

「え? 僕、予約とかはしてないですよ?」

とあっさり答えた。

一瞬、心の中で何かが空気を抜かれたようにしぼんだ。


けれど、それを悟られてはいけない。


高橋はすぐに態勢を立て直し、「いや、本当に音楽、感動しました!周りの子どもたちもすごく喜んでました!」と、少し大げさなくらい熱心にライブの感想を伝えた。

ボーカルの人は嬉しそうに、何度も「ありがとう」と言ってくれた。

そのやり取りだけで、十分だった。


帰り道。車を走らせながら、春の夜風を感じていた。今日もまた、特別な一日になった。

思い出すのは、広場に響いた笑い声。風に揺れる小さなパペットたち。空にとけていったメロディ。

そして、重なった偶然。

車で緑とすれ違いながら、

高橋は笑いを堪えられずにいた。


どれもこれもが、心に糸を編むように、重なっていく。

今日という一日をまた、高橋はそっと胸にしまい込んだ。



つづく

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